畑恵氏による解説。20世紀に活躍したイギリスの女性政治家

女性政治家の畑恵氏が分かりやすく解説します!

日本には政治家として活躍している女性が多くいます。

畑恵氏のように衆議院や参議院などの国政レベルで活躍している人もいれば、県議会や市議会など地方議会の議員に選ばれ活動している人もいます。

(参考ページ)キャスターから政治家へ、畑恵はどんな人?

こうした女性政治家の活動は21世紀になってからも、ますます活発になっていますが、これらの草分け的な存在がマーガレット・サッチャーです。

イギリスで女性政治家として活躍したサッチャーは、20世紀を代表する女性政治家という意味で、イギリスだけでなく世界各国で知られている存在です。

マーガレット・サッチャーが生まれたのは1925年で、この時期のヨーロッパは二つの世界大戦の間の混乱の時期にありました。

サッチャーが生まれたのはグランサムという場所だったのですが、彼女は一家の次女として生まれます。

家族はイギリスのありふれた中産階級で、地元で雑貨や食料品などを販売して生計を立てていました。

彼女は成長するとイギリス国内でも屈指の名門大学であるオックスフォード大学に入学します。

 

⒈政党の政治活動にも積極的に協力

大学で専攻したのは化学でしたが、学校で勉学に勤しむかたわら、この頃から政治の世界に関心を持っていた彼女は、政党の政治活動にも積極的に協力しました。

大学を卒業した彼女は専攻である化学の知識を生かして研究員の立場でしばらく働きます。

結婚をしたのは1951年で相手は実業家でした。

結婚後も精力的に活動を続けた彼女は、会社の仕事だけでなく、法律や税金のことなどにもより深い関心を持つように、勉強を続けた彼女は数年後には弁護士の資格も取得します。

こうした下積みの苦労が実って、彼女は1959年にイギリス下院の議員に初めて当選します。

所属したのはイギリスの政党の中でも伝統的な考え方を大切にしている保守党で、保守党の中でもより保守的な傾向の強い党派に所属して活動を始めました。

彼女が議員になった当時の1960年代初頭のイギリスは保守党のライバル政党である労働党が政権を握っていたために、彼女は野党の一員という立場で活動することになります。

 

⒉影の内閣の一員に彼女の名前があげられるように

党内でも次第に彼女の存在が認められるようになり、こうした影響力の強さを表しているのが影の内閣です。

イギリスでは野党が影の内閣という架空の内閣を組織して、いつでも政権を代われるように準備する慣習があるのですが、この影の内閣の一員に彼女の名前があげられるようになりました。

その後、保守党は政権を獲得してイギリスの与党となるのですが、彼女が初めて内閣の閣僚となったのは1970年のことです。

このとき内閣を組織したのは同じ保守党のヒースだったのですが、彼女はこのヒース内閣の下で、教育と科学を担当する大臣に任命されました。

政治家マーガレット・サッチャーが大きく飛躍したのは1975年のことで、この年保守党内で行われた選挙で、党首に立候補したサッチャーは対立候補である全首相のヒースに勝利して、保守党の党首に選ばれました。

その後、1979年に行われた国政選挙で保守党が再び勝利したことから、彼女は英国の首相として活躍することになります。

英国首相としての彼女が目指したのがイギリス経済の建て直しで、そのために彼女はさまざまな政策を打ち出しました。

首相という立場の彼女の考え方の基本になっているのが「小さな政府」という考え方です。

 

⒊サッチャーは外交にも手腕を発揮した首相

こうした考え方をもとに行われたのが、イギリスで行われていた各種の国営事業の見直しです。

小さな政府であるためには、できるだけ国の仕事を民間に任せたほうがよいと考えた彼女は、国営事業の多くを民営化に移行します。

こうした考え方は日本にも影響を与えて、1980年代の後半から日本でも多くの国営事業が民営化されました。

サッチャーは内政だけでなく、外交にも手腕を発揮した首相として知られています。

1982年にフォークランド諸島の領有をめぐって、アルゼンチンとの間に勃発したフォークランド紛争でも、イギリス側の代表者としてアルゼンチンとの交渉にあたりました。

またアメリカとの関係を重視した彼女は、1980年代にアメリカ大統領として活躍したロナルド・レーガンとも親しい関係を築きました。

彼女が重視したのはアメリカと協力して、政治的に対立関係にあった当時のソビエト連邦を牽制することです。

こうした強気な外交姿勢や国内における積極的な民営化の推進から、彼女は「鉄の女」というニックネームで呼ばれるようになりました。

さらなる財政の安定を進めるために、彼女は1980年代後半から新しい税金の創設を目指すのですが、この新税は野党だけでなく与党内からも反対意見が現れたために、彼女は四面楚歌の立場に追い込まれます。

こうした影響もあって、1990年に行われた保守党の党首選挙では再多数を獲得したものの、規定により再度選挙が行われることになり、これをきっかけにして彼女は保守党の党首を辞任します。

その後は上院議員として活動しましたが、21世紀に入ってから引退し、2013年に亡くなりました。

最終更新日 2025年7月29日 by eelerbay